なぜ私は私であって、あなたではないのか

「なぜ私は私なのか」
この問いは単純なようで、深く考えるほどに答えを失わせるものです。
哲学の世界では「めまいのする問い」と呼ばれ、長年議論の中心に置かれてきました。

たとえば、今ここで私が経験している「痛み」や「喜び」は、他の誰でもない、この私が感じています。
同じ状況を共有していても、あなたの痛みを私がそのまま体験することはできません。
これは単なる身体の違いではなく、「自己」という存在の境界を示す決定的な事実です。


自己同一性の謎

自己同一性とは、「なぜ私は他の誰かではなく、この私として存在しているのか」という問題です。
これは科学的に検証できる種類の問いではありません。
DNAや脳の構造を解明しても、「なぜそれが私であって、あなたではないのか」という問いには答えられません。

哲学者たちはこの問題をさまざまな角度から扱ってきました。
しかし多くの場合、最後には「答えが出ない」という地点に行き着きます。
それでも問いを投げかけ続けることが、自己理解を深める唯一の方法とされています。


他者と私の境界

この問いは他者との関係を考える上でも重要です。
「なぜ私は私なのか」と問うとき、そこには必ず「あなたではない」という比較が含まれます。

つまり、私という存在は常に他者との関係の中で立ち現れるのです。
他者を意識することがなければ、私という意識も定義できない。
「私」と「あなた」は、分かれているようでいて、実は相互に規定し合っている関係にあります。


一人一宇宙の文脈で

「一人一宇宙」という視点から見ると、この自己同一性の問題はさらに深まります。
私が経験している宇宙は、私のものにしか見えない。
あなたが経験している宇宙は、あなたのものにしか見えない。

けれど、その二つの宇宙は、根源的には同じ意識の源から立ち上がっているかもしれないのです。
もしそうだとすれば、「なぜ私は私なのか」という問いは、「なぜ意識が多様な個として分かれているのか」という問いと同義になります。


哲学的な立ち止まりの価値

この問いに明確な答えは存在しません。
しかし、答えが出ないことを知りつつも、問いを抱え続けることにこそ意味があります。
それは、自己という存在の輪郭を絶えず見直し、他者や世界との関係を再構築するきっかけになるからです。

「なぜ私は私であって、あなたではないのか」
その不思議さを引き受けることは、自分という宇宙を深く生きるための第一歩なのです。


次回予告

次回はさらに具体的に、「批判は宇宙を狭める」というテーマから、他者との関係をどう築くかを考えていきます。