私たちは普段、意識を「脳の働き」として説明されることに慣れています。
外界からの情報が五感を通じて脳に入り、脳が処理して「体験」をつくり出す。
この図式が当たり前だと考えられてきました。
たとえば「赤い花を見る」という行為も、光が目に入り、網膜で電気信号に変わり、脳が処理する。
その結果「赤い花がある」と感じる。
多くの人はこの説明で納得してしまいます。
この立場を「物理主義」と呼びます。
物理的なものが基盤にあり、意識はそこから派生する副産物だと考える立場です。
現代科学の大半は、この物理主義を前提に築かれてきました。
意識のハード・プロブレム
しかしここには深刻な矛盾があります。
「なぜ物理的な活動から主観的な体験が生まれるのか?」という問いに答えられないのです。
ニューロンが発火しても、その電気信号そのものに「赤さ」は存在しません。
電流の強弱に「痛み」や「喜び」という質感が宿っているわけでもありません。
それにもかかわらず、私たちは確かに「赤い」と感じ、「痛い」と苦しみ、「嬉しい」と心を震わせます。
このギャップを、哲学者デイヴィッド・チャーマーズは「意識のハード・プロブレム」と呼びました。
脳のメカニズムをいくら解明しても、「体験の質感(クオリア)」は説明できない。
これは物理主義が抱える最大の壁なのです。
意識が世界を生み出すという逆転の発想
そこで現れたのが、逆転の考え方です。
「意識こそが実在の基盤であり、物理的な世界は意識の表れにすぎないのではないか」という発想です。
この立場を「意識基盤説」や「分析的イデアリズム」と呼ぶ研究者もいます。
たとえば、夢を見ているとき。
夢の中では空も街も人も確かに存在しますが、実際には意識が生み出した現象にすぎません。
同じように、今私たちが「現実」と呼ぶものも、意識の巨大な投影なのかもしれない。
もし意識が先にあるとすれば、宇宙は「物理の積み重ね」ではなく「意識の現れ」として理解されます。
この見方に立つと、私たち一人ひとりの経験は、単なる脳内の活動ではなく、宇宙そのものが自らを映し出している瞬間だと言えるのです。
一人一宇宙とのつながり
「一人一宇宙」という直感も、ここでより鮮明になります。
意識が宇宙の根本であるなら、私が見ている世界は「私の意識に映し出された宇宙」そのものです。
そしてあなたが見ている世界も、同じ根から現れた別の宇宙です。
私の宇宙とあなたの宇宙は違う。
けれど、根源的にはひとつにつながっている。
だからこそ、他者を理解しようとする行為は、自分の宇宙を広げる行為でもあるのです。
逆に、他者を否定したり批判したりすると、相手を傷つける前に、自分の宇宙が狭く、濁ってしまう。
意識が基盤だとすれば、この因果は単なる比喩ではなく、実在の働きそのものだと言えるかもしれません。
哲学と科学のはざまで
もちろん「意識が世界を生み出す」と言うだけでは不十分です。
それをどう検証するのか。
科学的にどう説明できるのか。
この課題は残されています。
ただ一つ確かなのは、物理主義では意識を完全に説明できないということです。
その限界を越えるために、意識基盤説のような逆転の発想が必要とされています。
意識は脳がつくり出したものなのか。
それとも宇宙の基盤そのものなのか。
この問いは今もなお決着がついていません。
しかし、問いそのものを抱え続けることで、私たちの世界観は広がり、日常の見え方すら変わっていくのです。
次回予告
次回はこのテーマをさらに深め、「分かれる意識とつながる宇宙」というパラドックスを取り上げます。
一つの意識がどうして個に分かれ、再び一つにつながるのか。
その不思議を一緒に考えていきましょう。