氣幸という技術を長く伝えてきて、
感じていることがあります。
それは、
「世界は、選びなおせる」
という前提の上に、
私たちは立っているのではないかということ。
今回はそれを、
量子論、哲学、そして氣幸の視点から、
ゆっくりと掘り下げていきたいと思います。
光子は「いる」ではなく「またがっている」
最新の量子実験では、
単一の光子が複数の経路に同時に存在していた
という事実が、実験的に確かめられています。
これは「非局在(delocalization)」と呼ばれる現象。
つまり、光子は「どちらにいるか」ではなく、
最初から「どちらにもいる」状態で存在していたということです。
しかも興味深いのは、
「観測した後に、過去の状態が確定する」
という点です。
これは文脈依存性(contextuality)と呼ばれ、
物理的な現実が観測の文脈に依存することを意味します。
「今ここ」の意識で、物語は変わる
氣幸のセッションでも、
同じような構造を何度も見てきました。
過去の記憶に苦しんでいた方が、
共感覚を用いた技術によって、
その出来事をまったく違う意味で受け取るようになる。
「事実」は同じでも、
情報空間での意味が変わったとき、
その人の現実がまるごと変わるのです。
その瞬間、
その人が属していた「物語」は、
別の方向へと分岐していきます。
あたかも、
観測によって光子の状態が決まるように、
感覚を通して、現実の位相が切り替わるのです。
可能世界論が示す、別の選択肢たち
哲学者ソール・クリプキの「可能世界論」は、
この構造を別の角度から支えています。
彼によれば、
私たちの現実は、
数ある「可能な世界」のうちのひとつにすぎません。
「今ここ」で別の選択をしていれば、
別の結果が展開していた世界が、確かに存在する。
私たちは、
その「ある一つの可能世界」に位置しているにすぎず、
それは決して唯一のものではない。
つまり、氣幸で「場を書き換える」とき、
クライアントが感じているのは、
まさに別の可能世界を選択しなおす体験なのです。
非局在の自分と、文脈による現実の確定
この3つが重なります:
- 量子論が語る「非局在」と「文脈依存性」
- 哲学が語る「可能世界」の存在
- 氣幸が実践する「場の書き換え」
それはまるで、
私たち自身が非局在しているかのようです。
複数の可能性をまたいで生きていて、
そのうちのどの「自分」が出現するかは、
感覚と選択によって決まっていく。
過去も未来も「固定された道」ではなく、
書き換え可能な情報としての構造にすぎない。
氣幸とは、
その構造のチューニング技術なのかもしれません。
「選びなおし」は、今ここで起こる
この世界は、選ばれた現実ではなく、
選びつづけている現実。
その選び直しは、
知識ではなく、
感覚といういまの身体の中で起きる。
氣幸が扱っているのは、
まさにこの「今ここで起こる構造変化」なのです。
そしてこれは、
量子論の構造とも、
可能世界論の視点とも、
深く響きあっているように思うのです。