私たちは、
自分の意思で生きていると思い込んでいますが、
そのほとんどは無意識に支配されていると
認知科学では語られています。
たとえば
「なんとなく不安になる」
「なぜか嫌な予感がする」
そうした感覚も、
すでに無意識が先回りして判断し、
私たちはただそれに気づくだけ。
この無意識の正体が、
実は仏教や氣幸の世界観とも
深く関わっているのです。
無意識というプログラム
認知科学では、
私たちの思考や選択の9割以上が
無意識的な判断で構成されていると言います。
これはつまり、
行動や感情の多くが
見えないプログラムによって
自動的に決められている、ということ。
仏教ではこの部分を
「業(ごう)」や「阿頼耶識(あらやしき)」と呼び、
何度も生まれ変わっても消えない習慣的な構造
として捉えてきました。
氣幸では、
この無意識の情報を
情報空間上の構造や臨場感空間として捉え、
それを編集する技術として体系化しています。
脳はすべてを「仮の現実」として処理している
たとえば、
青い空を見て「気持ちいい」と感じるとき。
その青さも気持ちよさも、
実はすべて脳がつくり出した仮想のリアリティです。
色も、音も、感情も、
私たちは情報の処理結果を
現実と誤認して生きている。
ここに氣幸の本質があります。
氣幸とは、
こうした内部表現を書き換え、
現実に見える世界すらも変える技術。
仏教が言う「空(くう)」、
すなわち「実体のない世界」とは、
情報的な構造で成り立つ現実の本質に
非常に近い考え方です。
観測が世界を創る ― 量子論と瞑想
量子論では、
観測するまで現実は確定しないとされています。
シュレーディンガーの猫や
多世界解釈のように、
観測者の意識が世界を生み出しているという考え方は、
仏教の瞑想や氣幸の書き換えの世界と
深く通じ合っています。
私たちが
「こういう人生だ」と思い込んでいる現実は、
実はただのひとつの可能性にすぎません。
別の可能性、
別の情報空間を選びなおすことで、
まったく異なる人生が始まるのです。
瞑想=内部プログラムの再編集
瞑想は、
外部のノイズを遮断し、
内側の情報空間にアクセスする時間。
前頭前野が活性化し、
扁桃体が鎮まり、
恐れや不安のプログラムが
緩やかに解除されていきます。
氣幸の実践者にとって、
瞑想は編集モードに入る時間。
意図をもって
自分の内部構造を観察し、
必要な変更を加えることができる
貴重な機会です。
情報空間を生きるということ
氣幸では、
この宇宙そのものを情報空間ととらえています。
現実とは、
情報場の臨場感を
身体感覚として認識したものにすぎない。
だからこそ、
無意識という情報の層を扱うことで、
見える世界は書き換え可能になるのです。
仏教、認知科学、量子論、氣幸。
それぞれ異なる言葉で語られてはいますが、
すべてが本質的に
同じ構造を指し示していると考えることができます。
おわりに
真実とは、内側にしかない
誰かの教えではなく、
本に書かれた知識でもなく、
瞑想や氣幸の体験によって得た
内側の確信こそが、
現時点での「答え」かもしれません。
この世界は、
情報でできています。
あなたは今、
どの情報場にアクセスして
どんな現実を観測しているでしょうか?